【洒落怖】都市伝説まとめビンビンブログ

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    東京都千代田区大手町1丁目にある将門塚は、
    平安時代の豪族・
    平将門(たいらのまさかど)の首をまつっています。

    恐ろしい怨霊、平将門の荒ぶる魂を鎮めるため立てられた石碑があります。

    かつてここには、その名の通り巨大な塚が設けられていました。巨大な木々に囲まれ、昼でも暗く鬼気迫る場所でした。塚の前には大きな蓮池が広がり、明治期は大蔵省の敷地内にありながらも古の姿を静かにとどめていました。

    平将門祟り伝説の幕開けは、大正12年9月1日の関東大震災がきっかけでした。大蔵省も庁舎が全焼し、敷地内に仮庁舎を建てることが決定。震災から2ヵ月後、首塚を崩し蓮池を埋め立てその上に仮庁舎が完成しました。

    すると、現役の大蔵大臣が病死。そして、大蔵省の建築担当者をはじめ十数人が次々と死亡けが人も続出しました。さらに、まるで天罰のように大蔵省に落雷。周辺の官庁まで焼き尽くしてしまいました。

    昭和の恐怖!GHQ祟られる

    次の祟りの標的は日本を占領した連合軍の総司令部GHQ。元の場所で再び祀られていた将門塚に、今度はGHQが手をかけようとしたのです。

    大手町に広大な駐車場を建設中、首塚を潰そうとしたところ、ブルドーザーが横転し運転手が死亡。その後も不審な事故が相次ぎ、首塚の取り壊しは中止になりました。

    将門の怨霊は、首塚に手を出そうとした官僚や権力者に次々と災いを及ぼしたのです。

    平将門の伝説

    日本史上、最も恐ろしい怨霊に数えられる平将門ですが、その史実と伝説は反逆復讐に彩られています。

    平安時代半ば、北関東の一豪族だった平将門は周辺の豪族たちを次々に打ち破り関東全体の支配者となりました。平将門は、朝廷による支配から独立し「新皇」と名のりました。しかし、これは天皇と朝廷への反逆行為でした。

    平将門は朝廷側の討伐軍に抵抗するも、野望半ばにして敗北。その首は京都に運ばれ、さらし首になったと言います。

    ところが、伝説では平将門の首は夜な夜な怪しい光を放った上「私の胴体を返せ!頭をつないで一戦してやる!」と叫び、胴体のある関東へと飛び去っていったと言います。

    平将門の首塚は、その首が落ち祀られた場所と言われています。まさに反逆と復讐心が渦巻く手を出してはいけない地なのです。

    祟り伝説の真相

    噂として語られる大蔵省とGHQへの祟りは本当にあった出来事なのでしょうか?

    当時の新聞をあらいだしてみると、大蔵大臣の速水さんが就任わずか3ヶ月で確かに現役のまま病死しています。しかし、実は速見さんは首塚の取り壊しには関わっていない上、死亡したのは3年も後。当時の記事には「安らかな大往生」と書かれ、祟りを感じさせる記述はありません。他の大蔵省幹部の死亡記事はありましたが、連続して十数人が死亡したという記述は見つけられませんでした。

    また、落雷で大蔵省の庁舎が消失した火災が起きたのは、塚を潰してから17年も経った昭和15年。そもそも雷が落ちたのは大蔵省ではなく航空局です。当日は東京の20ヶ所に落雷する大荒れの天気で雷は大蔵省を狙ったものではありませんでした。

    そんな中、初めて祟りを記した記事が首塚を潰してから5年後の昭和3年3月。大蔵省が将門の鎮魂際を行った時のものです。記事によると大蔵省で死亡者が14人相次いだ上、首塚を土足で上から踏みつけるせいか足をケガするものが続出。大蔵省内で誰ともなく祟りだと噂がたったのが理由だといいます。今に伝わる大蔵省の祟り伝説は鎮魂際の記事が出所のようです。

    大蔵省は仮庁舎を撤去して首塚の石碑を立て直しました。祟りの噂が首塚を復活させたということになります。

    GHQの駐車場建設でのブルドーザー横転事故はどうだったのでしょうか?噂の出所として行き当たったのが、地元の研究者が昭和43年に記した「史蹟将門塚の記」です。そこには「ブルドーザーを運転していた日本人が突然の事故で死亡した」とだけ記されています。ブルドーザーが横転したとか、不審な事故が相次いだことは書かれていません。

    GHQは祟りなど眼中になく、工事を中止させるべく立ち上がったのが地元の人たちでした。事故のことを知るや彼らはGHQにむかい「ここは古代の王の墓だ」と訴えたそうです。何度も陳情を重ねた結果、首塚は駐車場に組み込まれず守られたのです。工事は塚のわずか50cm手前まで来ていたと言います。

    このとき、GHQへの陳情に当たったのが神田在住の遠藤政蔵さん。江戸時代よりも前、神田という地名は大手町一帯も含んでいました。首塚の近くには平将門鎮魂のためのお寺と神社がありました。その神社の名前は神田明神。徳川家康が平将門を関東の主としてまつったのをきっかけに、神田明神は将軍から庶民まで全てを守る総鎮守となりました。神田明神は江戸時代の始めに現在の場所に移されました。

    江戸の守り神となった平将門は、その後も人々から崇拝され尊敬を集め続けました。GHQに直訴した遠藤政蔵さんは地元で代々、材木商を営む町会長として、息子の達蔵さんも神田明神の氏子総代として平将門の首塚の保存と慰霊に力を尽くしてきました。

    守り神としての平将門は時代が江戸から明治にかわって以降、受難の時を迎えました。明治政府が東京にやってくると、平将門は反逆者として神田明神の主祭神から外されてしまいました。すると、街の人々は将門不在の神田明神に対して不満をあらわにしました。

    戦後、将門塚は地元の人や周囲の企業によって保存会が作られ、大勢の人々によって大切に守られています。祟りをなす怨霊の姿はそこにはありません。




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    鳥羽天皇と藤原璋子の間に第一皇子として誕生した崇徳天皇は、3歳という幼さで日本の第75代天皇として即位しました。しかし、実権を握ることはほとんどなく、さらには上皇となった鳥羽上皇の計略によって10代のうちに強引に天皇を譲位させられることに。

    崇徳天皇は上皇となり「崇徳院」と呼ばれるようになります。和歌を愛した人物としても知られ、崇徳院の詠んだ和歌は百人一首にも選ばれています。

    鳥羽上皇の死後、自分の不当な扱いに不満を募らせた崇徳上皇は、朝廷の実権を奪い返すため当時の天皇・後白河天皇に戦いを挑みました。こうして朝廷は後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、「保元の乱」という皇位継承争いが勃発。戦いは激しい武力闘争へと発展します。

    最終的に崇徳上皇は敗れ、出家をすることに。当時は皇族が乱を起こしても出家さえすれば罪に問われないのが慣例でしたが、崇徳上皇は讃岐(現在の香川県)へ流されるという厳しい処分を受けました。

    保元の乱の拠点となった高松神明社

    保元の乱の拠点となった高松神明社

    讃岐に幽閉された崇徳上皇は、仏教に深く傾倒し、5つの写本を仕上げます。京都の寺に納めて欲しいと朝廷に差し出したところ、あろうことかこの写本は「呪いが込められているのではないか」として送り返されてしまいました。

    その屈辱以降、崇徳上皇は「妖怪に生まれ変わって無念を晴らす」として死ぬまで髪と爪を伸ばし、鬼のような形相へと変わったといいます。そして最後まで京へ戻れずこの世を去ることに。

    崇徳天皇の怨霊

    崇徳天皇の怨霊

    崇徳上皇の死後、延歴寺の強訴や安元の大火など、日本を揺るがす事件が立て続けに発生。また、崇徳天皇と敵対していた後白河法皇の身内が次々と亡くなります。

    これら一連の出来事は、崇徳上皇の怨霊が引き起こす祟りであると考えられました。そこで保元の乱の戦いの場に「崇徳院廟」が建てられ、罪人の扱いは取り消されることに。

    しかし、その後も後白河天皇が亡くなるまで災いは止まなかったと伝えられています。崇徳天皇の怨霊はその後の天皇にも恐怖を与え続け、明治時代以降の天皇も崇徳天皇の鎮魂の行事を執り行っています。





    平将門(たいらのまさかど)は平安中期の関東の豪族で、桓武天皇の子孫である平氏の一族であり、元々京で藤原氏に仕える武士の一人でした。しかし、父親である平良将(よしひら)の死去をきっかけに関東へと戻ると、領地の相続を巡り親族間で争います。

    叔父であった平国香(くにか)や平良兼(よしかね)に相次いで襲撃を受けた平将門ですが、いずれも返り討ちにして完全勝利を収めます。すると、その武勇はたちまち関東に知れ渡り、多くの武士たちが平将門の元に集まるようになりました。

    勢いに乗った平将門は、関東八カ国の国府を襲って行政官である国司を追放してしまいます。そして自らを「新皇」と名乗り、日本半国を有する新国家の樹立を宣言。当時、関東の国々は国司の圧政に苦しんでいたため、新国家樹立は市民とって喜ばしい出来事だったと言います。

    平将門終焉の地に建てられた國王神社

    平将門終焉の地に建てられた國王神社

    しかし、この行為は朝廷への反逆とみなされ、平将門の追討令が出されます。そして新国家の樹立を宣言してからわずか2ヶ月で、平貞盛(さだもり)と藤原秀郷(ひでさと)にあえなく討ち取られてしまいました。

    この一連の出来事は「平将門の乱」と呼ばれ、貴族の世から武士の世へと変革するきっかけとなった歴史的クーデターとして語り継がれることとなります。

    京に晒された平将門の首が関東へ飛んだという

    京に晒された平将門の首が関東へ飛んだという

    討ち取られた平将門の首は京へと送られ、都の河原に晒されることとなりました。しかし、無念の死を遂げた平将門の首には、奇妙な出来事が立て続けに発生。何ヶ月も目を閉じなかった、夜中に歯ぎしりをしたといった噂が絶えなかったのです。人々は平将門の強い怨念としてこれを恐れました。

    そしてついには、首が体を求めて関東へと飛んでいったという伝説まで残っています。飛んでいった先に建てられたのが、現在の東京都千代田区・大手町にある将門塚(しょうもんづか)と言われています。

    平将門の首塚

    平将門の首塚

    奇妙な出来事はなんとこれだけでは終わりません。関東大震災の後、全焼した大蔵省庁舎の仮設庁舎を首塚のある場所に建てたところ、当時の大蔵大臣をはじめ関係者が次々と亡くなり、庁舎は取り壊されることとなってしまいました。

    また、戦後にGHQが駐車場の建設のために首塚を取り壊そうとしたところ、重機が横転して運転手が亡くなるという事故も発生。

    平将門の首塚を取り壊そうとするたびに不吉な出来事があまりにも多く起きるため、いつしか平将門の怨霊による祟りと噂されるようになりました。平将門の首塚には現在でも数々の不思議な出来事が起きるという噂が後を絶ちません


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